昭和30年代初頭の歌笛

歌笛に行って見よう

私が少年時代を北海道日高で暮らした4地域中、西舎・田原・振内については、実際に住んでいた場所に行き、その訪問記を書いて来たが、歌笛は殆ど諦めていた。それは当時住んでいた歌笛中学校辺りをGoogleマップの航空写真で見ると、もう誰も住んでいない廃墟のようなのと、かつて妹夫婦がその辺りに行っても分からなかったからだ。だが一度、歌笛に行き自分の目で確かめて見たいと思うようになり意を決した。
いつもの3人で札幌を出たのは2019年8月3日。先ず新ひだか町静内で先祖の墓参りをし、ホテル アネックスインに宿泊した。
翌日、歌笛へ向かう途中、真歌公園に立ち寄り2代目シャクシャイン像を見たが、2016年の時とは違い融和的で穏やかな表情のものであった。所がその後、シャクシャイン顕彰会が独自の再建を画策し、初代と同じ姿のシャクシャイン像が2020年10月18日に披露されたのである。
シャクシャイン像は1978年8月、会社の同僚と北海道ドライブ旅行をしたとき初めて見た。その後、2度見ている訳だから一番新しいのも何れ見たいものだ。

この後は海岸線の日高国道を走り、春立駅(閉業)でトイレタイム。そして、そこを出て直ぐに東別方面へ舵を切り、先ず本桐を目指した。
その途中、綺麗な小学校があったので、停車したら「延出小学校」と書いてあったが、どうやら廃校になっている、と感じた。
この写真を良く見ると「夢」と言う題字の下に「三石町長 太田皆雄」と書かれている。実はこの方の娘さんとはその約1年後、札幌の「みなみくん歩好会」で会い、歌笛情報を貰うこともあった。

本桐までもう少しと言う所に来たら、右側に日高本線の線路が見えて来た。これはいずれ廃線になるから、その記念にと思い線路上で、それぞれが記念撮影をした。
その場所をGoogleマップで調べると「三石蓬栄」辺りであった。また、これをストリートビューで確認すると、撮影時が同じ頃であったと見えて、踏切脇には黄色い花が咲いていた。

歌笛に到着

線路での記念撮影が終わると後は本桐を目指すだけ。さて、どこで曲がって歌笛に行ったのか、覚えていなかったので調べたら「セイコーマート本桐店」であった。
歌笛に入り最初に行ったのは「歌笛診療所」。ここは妹が小学生1~2年生の時、皮膚の治療によく通った所である。診療所の玄関先で、いつものツーショットとなったが、歌笛はここだけであった。
この後、診療所周辺の商店などをデジカメに収め、いよいよ歌笛中学校跡地調査のため車を走らせた。
今は火曜日午後だけの診療(内科・小児科・外科)で三石国民健康保険病院の担当医が派遣されて来るようだ。

歌笛橋を渡って直ぐ左折すると、間もなく目的の場所に着いた。車は庄内川にかかっている橋の手前に駐車し、辺りを見渡すも、中学校方面は草藪状態。その中で、何とか歩ける所を、数十メーターほど恐る恐る歩いて見たが、草藪の中から微かに見えたのは廃墟と化した建物の残骸であった。これ以上は無理と言う所まで行って引き返した。その途中、川の流れる音がしたので、その方向を見たが川は見えなかった。一方、道路の反対側を見ると、いくつかの丘があった。あの辺りで、ソリ遊びをしたのだろうが、特定するには至らなかった。

次に確認しておきたかったのは歌笛小学校跡地。今ここには「開村百年 開校九十年 記念碑」が建てられていた。裏側を見ると「平成元年(1989)11月吉日」と書いてあった。この時は日本を離れ、台湾高雄の加工区で、ホームステレオを作っていた頃である。
現在、歌笛小学校は廃校になっているが、旧校舎として近くに存在している。相馬から札幌に引っ越した1995年に、これを見たときは校舎のロゴに「三石町立」が入っていた。
これらで歌笛は終わるはずだったが、あるひょんな事で訪問した家から同級生の動向を知ることになり、そこから様々な歌笛情報が得られたので遅ればせながら、これを書くに至ったのである。

※関連事項
・昭和15年:歌笛小の二宮尊徳銅像設立
・昭和27年3月4日:十勝沖地震で校舎倒壊し体育館を教室にしていた
・昭和28年:校舎新築落成
・昭和63年12月:歌笛小学校新校舎完成
・平成23年4月1日:歌笛・本桐・延出・鳧舞・川上小学校を三石小学校に統合
・歌笛・川上地区は明治23年以後「福井県大野地方」から集団入植
・延出地区は明治19年に淡路島(兵庫県南淡町)から8世帯が移住
・「淡路豊年桝踊り」は「新ひだか町指定無形文化財」に指定され「延出郷土芸能保存会」として今も活動中
・「歌笛越前踊り」は「三石歌笛越前踊り保存会」として

 

歌笛の旧地図

昭和28年の航空写真

歌笛訪問に当たって、昭和30年代の地図がないかを調べた。これは田原小学校の時と同じように、国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」を利用したのだが、昭和28年の米軍撮影による広域航空写真だけだった。それでも、それをダウンロードし、歌笛市街だけをトリミングして見たが、この程度にしかならなかった。でも、住宅の密集度は見てとれる。この中で、屋根の大きいのは映画館であろう。

昭和30年代の歌笛

次にやったのはGoogleのマイマップを使い、現在の地図に昭和30年代の建物を入れて行く作業である。これには当時を知る人々の協力を得て作成して行ったが、その取りまとめ役を手まめな同級生が担ってくれた。しかし自分自身に記憶のないものが殆どだし、地図の精度を検証する手立てはない。
※赤いアイコンをクリックすると名前(一部説明付き)が左に表示されます。

平成2年の航空写真

「歌笛百年誌」に載っている平成2年(1990年)の歌笛航空写真。

歌笛小での2年間

小学3年生から、三石町(現・新ひだか町)の歌笛小学校で学んだが、ここも2年間と短かった。ここで思い出すのはイカダ・ソリ・スケートと言った遊びと、歌笛劇場でのノンちゃん雲に乗る・怪人二十面相・水芸等の娯楽。それに学校行事の相撲大会・田植え・紙芝居などである。

校舎

右の写真は「歌笛開村100年、開校90年記念誌」より拝借したものだが、校舎の外観はおぼろげに覚えている程度。1970年後半、会社の同僚と北海道ドライブ旅行をしたとき、歌笛にも立ち寄り、「二宮金次郎像」前で、記念撮影をしたのだが、その証拠となるべき写真がない。それは恐らくフィルムをスキャンしてデジタル化したとき、抜けてしまったのであろう。

田植え

これは4年生の時であるが、最初で最後の田植え経験であった。覚えているのは苗を真っ直ぐ植えられなかったことくらい。この田植えが何の為に実施されたのかは全く覚えていなかった。
これは最近、知ったことだが農繁期になると1週間の援農休暇があり、4年生以上は日当150円で各農家へ田植えに派遣された。3年生以下はそれぞれの家でお手伝い。もし6日働いたら900円になるが、当時としては結構な額である。当時よく買っていた漫画雑誌は「ぼくら」だと思うが、定価は30円位か。振内小学校で行った修学旅行の小遣いは500円までであった。だが、それで何を買ったか、覚えていない。

※参考:昭和30年頃の価格は下記の通り
*昭和29年映画入場料:100円(昭和32年150円) *昭和25年~43年キャラメル:20円 *昭和29年サイダー:35円 *昭和30年納豆:10円 *昭和31年あんぱん:12円 *昭和32年公務員初任給:9,200円 *昭和35年豆腐:15円 *昭和35年入浴料:17円 *昭和35年自転車:18,000円

イカダ

夏の遊びで、覚えているのは歌笛橋近くでのイカダ遊び。イカダの上に同級生以外の人も一緒に乗って遊んだ。もし、川の流れが急ならば危ないと思うが、鳧舞川の流れは今と昔では全然違い、イカダ遊びをした場所は囲ってあって、流れが緩やかだったらしい。
ここではこんなエピソードがある。それは小2の妹が帰る途中、イカダで遊んでいる私を見て「私もやりたいな~」と、よそ見していると足を滑らせてズボ~ンと川に落ちてしまった。それでも自力で這い上がり、泣きながら家に帰った。その時、それが妹とは露知らず「もう、飛び込むやつがいるんだ~」と私は思ったのだった。

スケート

当時のスケート靴はブレードに長靴を載せた様なものだった。これで、近くの庄内川で滑ったのだが、段々もの足らなくなり、鳧舞川まで足を延ばした。このとき、一緒に滑っていた友達が氷の割れ目に落ち、びしょ濡れになったが、浅い所で滑っていたので、大事には至らなかった。

ソリ

冬の遊びでは中学校グランド近くの丘で滑ったそり遊びが一番の思い出。最初は単純なものだったが、段々改良しソリの先頭に舵を付けた。
舵付きソリのイメージ図はこの様なものだが、手に持った縄で体のバランスを取り、両足で舵を切りながら滑るのである。
丘の下には農家があった。ここには五右衛門風呂があり、一度だけ入ったことがある。それと、家裏の肥溜に腰まで浸かったこともあった。また秋になると栗の実を生で食べたこともあるが、皮の渋かったこと半端じゃなかった。

紙芝居

歌笛小学校と言えば必ず思い出すのが紙芝居での失敗。それも失敗と分かったその瞬間だけを鮮明に覚えている。だから、紙芝居のタイトルはもちろん内容も覚えていないし、どのように発表者が決まり、どう稽古したのかも皆目記憶がないのである。その瞬間とはこうだ。
場所は学校の講堂で何らかの発表会。私は筋書きを読む役目。そして、右隣には絵をめくる役目の同級女生徒が座っていた。私はその筋書きが絵の裏にも書いてあると思っていたので、次の絵になるとき少し間をおいた。こうすれば順調に事が進むはずだった。
所が時間がかなり進んだとき、隣で絵を続けて一度に何枚も急いで捲っているのが分かった。ここで、初めて筋書き通りに捲っていなかったのを知り、読むのを止めた。それが今の場面に合っているか、どうか分からないが、めくり終えると兎に角く、続けて読んで終わらせた。そのあと、先生や同級生に何か言われたと思うが、何も覚えていない。それがずっと心に残っていた。どうして、あんな事が起きたのか。その謎は未だに分かっていない。

相撲大会

これは恐らく4年生の時であろうが、相撲大会に参加した記憶が残っている。場所は歌笛神社の境内。これは最近の調べで分かった事だが、階段数が193もあると言う。ここを1段1段上って行ったはずだが、苦しかったという記憶はない。この相撲大会で覚えているのは勝ち負けよりも、相撲のルールである。つまり、柔道のような投げ技を使っていいのかどうか。もし、投げ技を使って反則となるのが嫌だったので、押し相撲に徹した。それで1勝はしたが、その後の事は何も覚えていない。
※「歌笛百年誌」に「青年達の神社祭典奉納相撲」の写真が載っていたので拝借した。
※歌笛神社については「神社と狛犬見て歩き」が詳しい。

歌笛劇場

映画では「ノンちゃん雲に乗る」が思い出として真っ先に出て来る。でも可愛い女の子が出て来ただけで、面白い内容ではなかったように思う。「ノンちゃん」を演じたのは鰐淵晴子。これは忘れずにいた。しかし「お母さん」は原節子で「雲のおじいさん」は徳川夢声となると、全然覚えていない。2番目は江戸川乱歩の怪人二十面相。この手の映画は男子生徒が好んで見た。この後も似たようなものを見たが、怪人百面相と言うのもあったかも知れない。
その他では水芸と言うのが印象に残っている。いま、日本で毎日やっている水芸は「日光江戸村水芸座」だけとか。この動画を見ると、歌笛劇場のときも、こんな感じで公演されたのであろう。

駄菓子屋

小学校の近くに駄菓子屋があり、割烹着らしきをまとったおばあさんが、店番をしていた。ここの5円クジが人気で、良く買いに行った。店の名前は覚えていなかったが、あのまめな同級生の話だと盛岡さんとか。

 

住まい

歌笛中学校教員住宅

静内町田原に2年間暮らしたあと、三石町歌笛に引っ越した。その場所は歌笛中学校の校長住宅だが、その全景写真はない。その住宅は学校の右端から直ぐのところにあったが、何故か2階建てだった。
三石町史の歌笛中学校配置図を見ると、教員住宅(一)(二)(三)と言う記述がある。この図から想像すると校長住宅の前に教頭住宅があり、そこから少し離れた所に教員住宅があったようだ。これまでなら、その場所に行き妹とツーショットが慣例であったが、歌笛だけはその場所に行けなかった。

その代替として当時、校舎をバックに写したツーショットを修正して載せることにした。この撮影場所は窓の形から、正面玄関の右側(職員室)である。
更によく見ると左側の3つの窓が全て開いているのが分かる。
住宅から見た景色で覚えているのは左前方にあったサイロ。
つまりこの一帯は農家だったのである。
それは昭和22年に旧歌笛農業実習青年学校校舎を転用して開校した事でも窺える。その農家から牛乳を分けて貰って飲んだ。


オート三輪車

校舎の右端にオート三輪車があった。その時は変だと思わなかったので、父に何も聞かなかった。この事を書くに当たって検索して見たが何も出て来なかった。そのとき思いついたのが、Googleの「ブックス」での検索。すると「紺綬褒章」に「委査の事由昭和二九年六月北海道三石郡三石町立歌笛中学校備品として、貨物用小型自動三輪車一台を寄附したこと…」と言う文章が出て来た。これで大喜びをしたのだが、贈り主で見誤った。原因はスニペット、つまり検索結果は全文でなく断片的に表示されたのだ。そこで、例の同級生に調べて貰ったら、贈り主は「逢坂」と言う人で、中古車だと分かった。これで再検索すると「逢坂高雄」さんが出て来た。その当時、逢坂さんは農機・オート三輪車・オートバイ等の販売や修理を生業としていたようだ。

有線放送

この頃、電話に相当したのが有線放送。各戸共通のお知らせが、部屋のスピーカーから聞こえていた。時には名指しで呼び出し話していたが、農作業関係の打ち合わせだったかも知れない。また有線放送を通しラジオ番組が流れていたようだ。
当時のラジオと言えばゼネラル(GENERAL,八欧電機)の真空管ラジオが思い起こされる。この頃は5極管が使われていたと思うが、電圧変動対策のため、電圧変圧器がラジオの側にあった。
※参考:「歌笛百年誌」によると、昭和30年:農協有線放送開始、昭和41年:テレホン式に改装、昭和8年:歌笛市街電話開通との事だ。

床下浸水

これまでで、唯一、自然災害には遭ったのは歌笛時代。これは台風による大雨で鳧舞川の支流庄内川が氾濫し、家が床下浸水したのだ。

火事

中学校から見ると、川向かいの製材所で火事が起こり、夜空が真っ赤になった。また小学校近くでの火事はぼんやり覚えている程度。何でも馬小屋から真っ赤な炎が吹き出したらしい。

バス

田原小学校の時はバスに乗ると、座らずに運転席隣に立って前方を見ていた。それは運転手がギアをセカンドのまま吹かし、砂利道を少し蛇行しながら走って行くのが楽しかったからだ。だが歌笛ではそう言った記憶が全くない。それは記憶に残るほどの事がなく万事がフツーであったからだと思われる。
※関連情報
・1933年(昭和8年)12月15日:国有鉄道日高線静内駅 - 日高三石駅間延伸開通。これに伴い、道南バスは三石ー歌笛間を1日おきに運行させた。
・戦中戦後のある期間、ガソリン不足のため木炭ガスによって走った事もあった。

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