北の零年 史跡巡り 洲本編

北の零年 史跡巡り 洲本編

この「北の零年 史跡巡り 洲本編」は新ひだか町編」の続編である。
先ず、徳島藩洲本領主稲田氏の家臣だった曾祖父が一家5人で静内に移住したわけを13秒の動画で見てみよう。 曾祖父一家が大阪丸・大有丸・鍋焼丸の汽船3隻の内、どれに乗って洲本港を出たかは分からないが、もし同年8月、和歌山沖で沈没した平運丸だったならば私はこの世に存在しない。

NHK 金曜時代劇 お登勢

NHKアーカイブスに2001年放映の「金曜時代劇 お登勢」があり、ここで第一回の冒頭部分(お登勢:沢口靖子)を見ることができる。
「番組詳細」から引用すると、

淡路島に生まれた貧農の娘・お登勢(沢口靖子)。その当時は誰もがそうだったように、彼女も幼くして武家へと奉公に出される。そこで出会ったのが勤王の志士・津田貢。彼こそがお登勢の運命の人であった。しかし、まるでその愛を試すかのごとく、数々の試練が彼女を襲う。お登勢は淡路から東京、北海道・静内へと身の置き場を変えていった。時代に翻弄されながらも、運命と正面から向き合い、困難を乗り越えていくお登勢の波乱の人生を描く。

船山馨著 「お登勢」と「続お登勢」

「北の零年」ここから始まる ガイドツアー

洲本市観光協会では嘗てこんなガイドツアーをやっていたのである。今回はこの「現在 このガイドツアーは行われておりません」と言う付箋が貼られたパンフレットを参考にしながら、史跡巡りをすることにした。

淡路文化史料館

洲本港で下船すると、タクシーで直行したのが、ここ淡路文化史料館だ。目的は洲本市の静内移住者名簿を見せて貰うこと。ここに曾祖父がどう記述されているか。これまで北海道で得た情報以外の事があるのかどうか。
●以後、画像クリックで拡大 だが、期待に反して、ここにあるのは北海道稲田会の「先人を偲び」や「静内町史」がメインで、洲本市独自のものはなかった。到着早々、冷や水を浴びせられた格好だが、気を取り直して、館内を見学した。

お登勢の像

「淡路文化史料館」門外

お登勢は下駄履きに水桶と柄杓を持って、大きな口を開け、豪快に笑っているが、これは加納家奉公時代の姿を模したものなのだろう。
その横に建ててある石版には次のように書かれていた。

庚午事変と「お登勢」
 江戸時代の淡路は、阿波の大名蜂須賀氏の領国であった。蜂須賀氏は、筆頭家老の稲田氏をはじめ家臣を洲本に派遣して、淡路を支配していた。
 稲田氏は、阿波と淡路に約一四,五〇〇石という、大名並みの知行地を与えられ、多数の家臣を抱えて、淡路の最高行政職である洲本仕置や、洲本城代に度々任じられた。

 その稲田氏の家臣は、陪審(又家来)だとして蜂須賀家臣からは低く見られたが、主君稲田氏の祖先が、蜂須賀氏草創の時から大きな功労があることや、稲田氏が大名格で公卿とも縁組みしていることなどに誇りをもっていた。
幕末の激動期になると、蜂須賀氏が幕府支持派であったのに対して、稲田氏やその家臣は、積極的に尊皇攘夷運動に参加し、明治新政府の樹立に貢献した。

 ところが、維新による身分制度の変革で、蜂須賀家臣か士族になったのに、稲田家臣は卒という一段低い身分に編入され、しかも僅かばかりの手当か藩から給付されることとなった。この処置に強い不満をもった稲田家臣は、三田昴馬等を中心として、稲田氏との主従関係の継続と士族への編入を再三にわたって藩に陳情。さらに、中央政府への稲田氏分藩独立運動へと発展させていった。
 このような稲田家臣の動きは、蜂須賀家臣を激怒させ、遂に大村純安・平瀬伊右衛門・多田禎吾等洲本在住の過激派が決起することとなった。

 明治三年(一八七〇)五月十三日早朝、蜂須賀家臣に率いられた八〇〇名余りの兵が、銃のほか大砲までも引き出して、洲本市中の稲田氏の邸宅や学問所である益習館、稲田家臣の屋敷を次々襲い、殺傷・捕縛連行・放火した。稲田側は無抵抗であったこともあり、自決二名・即死十五名・重傷六名・軽傷十四名、焼失家屋多数という大きな被害を被った。この年が「かのえうま」に当たることから、事件を庚午事変と呼んでいる。

 明治政府の下した処置は厳しく、蜂須賀側の首謀者十名に斬罪、二十七名を伊豆諸島への流罪とし、禁固や謹慎は多数に及んだ。一方の稲田側は、当主の稲田邦植以下家臣が北海道への移住を命ぜられ、翌年荒野の広がる日高国静内へと移って行った。
 この騒動の影響は大きく、洲本は一時活気を失ったほか、明治九年には淡路が徳島から分離されて、兵庫県に編入されることになった。

 この庚午事変を背景として書かれた、船山 馨・原作の小説「お登勢」が、平成十三年、NHKでテレビドラマ化され、十二回連続で放映された。
 激動の時代を愛一筋に、健気に生き抜いた「お登勢」の姿が人々に感動を与え、好評を博した。
 これによって洲本は、「お登勢」の町として全国に知らせると共に、庚午事変が改めて注目されるようになった。

  平成十四年五月十三日
      お登勢の銅像建立実行委員会
      碑文 淡路地方史研究会

洲本高速バスターミナル待合室

バスターミナル待合室にも「お登勢の像」があると、ネット上に書いてあったので、行って見ると、シャッターの下りた観光案内所の前に立っていた。

厳島神社

6月23日早朝、レンタカーを借りて、最初に行ったのが、この厳島神社である。この境内には、家老稲田家の守護神「稲基神社の碑」と「お登勢之碑」が同じ場所に建っていた。
この「お登勢の碑」はもう40年以上も前に建てられたものだから、年紀を感じる。今はあまり顧みられないのか、横に置いてある案内板が倒れていたので、それを石碑に凭せ掛けて撮影した。

 明治初年、洲本で起った所謂、「庚午事件」がもとで稲田家一族が、北海道に開拓のため、移住するに際し、日頃崇敬していた稲田家の守護神「稲基神社」の碑を残し渡道し、北海道静内に斎祀し、遠く故郷を偲びつゝ今の静内町の基を礎いた。
 昨年洲本ライオンズクラブと、静内ライオンズクラブが姉妹提携を結んだのを機に、この稲基神社を中心に、静内ライオンズクラブから送られてきたエゾつゝじ、白樺、ライラックなどを植え小公園とし、淡路と静内の先人達の威功を偲び、末長き友情を結びたい。
 お登勢はこの事件をモデルにした船山馨先生の小説、「お登勢」の主人公である。
  昭和五十一年十二月吉日
   洲本ライオンズクラブ

「稲基神社の碑」と「お登勢之碑」

旧益習館庭園

洲本は道が狭いので一方通行が多い。そんな中、旧益習館庭園へは通り過ぎてしまった。案内板が道路より引っ込んでいるので、見過ごしたのである。こうなるとやっかいだ。行き過ぎを示す「旧益習館庭園」の文字はあれど、場所を特定できず。
当てにしていたGPSも今は誤差があるので、周辺をうろうろして結局、また同じ所に戻ってきた。今度はようやく分かったので、敷地内に入り、管理人さんに駐車の事を聞くと、直ぐ近くの公民館に置けばいいと言う。
ここの管理人さんに話しを聞くと、この方は洲本市役所の広報担当時、姉妹都市提携のため、助役のお供で静内に行ったことがあると言う。これはもう30年以上も前のことで、千歳空港まで迎えに来てくれたとか。
調べて見ると、提携日は昭和61年5月2日となっているから、確かにその通りだ。「季節は?、桜は?」と尋ねると、「桜は咲いていなかった。」と話していた。
この庭園は京都の桂離宮、金沢の兼六園、東京の六義園、岡山の後楽園などの様に園内を散歩しながら観賞できる回遊式庭園で、巨岩が中心になっている。
この庭園を見ると、当時の技術力はもとより、稲田家の経済力・権力を如実に物語っている。

江国寺

江国寺は稲田家の菩提寺で庚午事変時の当主稲田邦植の墓地や庚午事変で命を落とした17名の家臣達の招魂碑などがある。
稲田家の墓が建ち並ぶ中で、第16代当主稲田邦植の墓が中央の位置にあった。ここで初代当主の墓を探したが、第3代当主稲田植次までであった。

淡路人形座

映画「北の零年」のオープニングに人形浄瑠璃が出てくる。この温暖の地で優雅な生活を送っていた一家に待ち受けていたのは過酷な地への移住、と言う対比で描かれている。
南あわじ市福良のレストラン「なないろ」での昼食が終わり、外に出ると、雨が降っていた。
淡路人形浄瑠璃は3人遣いの人形・義太夫・三味線で演じられる古典的人形劇だ。最盛期の江戸時代には座元が48座もあったと言うが、現在は淡路人形座だけである。
館内で待つこと約1時間。売店や展示物などで時間を潰した。客席は木材や竹で作られていたが、背中の部分が痛かった。
今日の演目は「戎舞(えびすまい)」。
[戎舞]と書かれたリーフレットの一部を紹介すると、

 戎さまが、釣竿をかついで淡路人形座にやってきました。庄屋さんはお神酒を出します。さかずきを飲み干した戎さまは、自分の生まれや福の神であることを話しながら舞い始めます。海の幸、山の幸を前に、みんなの願いをかなえようと、お神酒を飲み、幸せを運んできます。酔った戎さまは、船に乗り、沖に出て、大きな鯉を釣り、メデタシ、メデタシと舞い納めるのでした。

※画像は淡路人形座のパンフレットよりコピー

[戎舞]が終わった後は背景が次々と変わる「大道具返し」。これは目の錯覚を使用したものだが、大広間は金天閣のそれに似ていると思った。
幕が下りた後は人形を前にして記念撮影。観客の中では1番前の3列目に座ったので、撮影はトップと、ここでは待ち時間がなかった。

アルチザンスクエア

稲田家ゆかりの松が、あると言う事で行ったが、表記上あったのは「静内の庭」だけであった。前方に見える松らしき小さな木がどうやら、「稲田家ゆかりの松」のようだ。
アルチザンスクエアは赤レンガ造りの建物が目立つ商業地域。かつて洲本市の基幹産業として栄えた鐘紡洲本工場の施設跡地に再開発された。

洲本城天守閣

当初、予定に入っていなかったが、時間に余裕が出来たのと雨が止んだので、行ってみることにした。
これから先、車の乗り入れは禁止だから歩くことになる。ここはそれほどでも無いが、本丸大石段に来ると、妹が根を上げ、元気な旦那に傘で引っ張って貰っていた。

三熊山頂には昭和3年(1928年)に建造された日本最古の模擬天守が建っている。山麓の平城跡には淡路文化史料館・裁判所・検察庁・税務署が建つ。
山頂はこの通り、靄っていたので、展望はきかない。

洲本港

トップの動画に書かれているのは

明治3年(1870)の庚午事変(稲田騒動)により、北海道日高国静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた藩主・稲田邦植以下137戸、546人の旧家臣たちは、明治4年4月13日から3隻の汽船に分乗し洲本港を出発した。

曾祖父はその家族4名を連れて、3隻の内のどれかに乗ったのであるが、3回目の同年6月9日静内郡捫別村(今の東静内)上陸ではないかと思う。
そして、その後の名簿には二男が記されていないから、どこかの時点で亡くなったのだろう。
帰りは気温が高かったので、かなり長い時間、上のデッキに出ていたが、風が心地よかった。こんな洲本から行ったのだから、北海の寒、到底想像の及ぶ処に非ず、であったろう。

食事

旅行中、3人は同じものを食べた。その中で、往きのANA内で食べた「海苔巻き・いなり寿司弁当」以外は写真を撮っておいたので、旅の記録として、載せておこう。

●2018年6月22日夕食、海鮮丼(サラダバー付) ※洲本市 淡路ごちそう館 御食国、1,998円(税込)

●2018年6月23日,24日、朝食バイキング 取り敢えず、こんなのを持ってきて、あとは各自のキャパに応じて追加。 ※洲本市 ハーバーホテル海月7F「潮音(しおね)」、シングル1泊 8,160・ツイン1泊 6,860円・(朝食付、税込)

●2018年6月23日昼食、なないろうどん ※みなみ淡路市福良 うずしおドーム れすとらん なないろ、900円(税込)

●2018年6月23日夕食、御食国ビーフカレー(サラダバー付) ※洲本市 淡路ごちそう館 御食国、1,490円(税込)

●2018年6月24日昼食、天おろしそば ※関西国際空港2F、花ごよみ関空店、1,080円(税込)

旅を終えて

今回の旅は「新ひだか町編」と同じメンバーだが、妹の旦那がツアーコンダクターの役目を、妹が会計を担当した。だから、私は彼の書いた旅程表に沿って行動し、旅費はあとから振込んで終わり、と言う楽チン旅行であった。

「北の零年 史跡巡り」は関係者だから興味を持って回ったが、一般の人に取ってはもう賞味切れと言う感じだ。ガイドツアーは終わり、史跡の手入れも手薄になっていた。この手のものは大体こんな運命を辿る。

曾祖父の移住前の住所は分からず仕舞いに終ったが、淡路島の気候風土や産品、それに人形浄瑠璃を体験できたのは良かった。
みなみ淡路市の都美人酒造は昭和20年、島の南部の10軒が合併した会社とか。曾祖父一家に杜氏がいたと言うから今の、みなみ淡路市辺りに住んでいたのかも、と思いながら「都美人 大吟醸 凜美」を飲んだ。


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