振内劇場

振内中学校ミニ同窓会…その後

6月10日 二世宇園に集まった同窓生の中にリケジョ系がひとりいた。そして、この人のお陰で、これまでは電話や出向いて取材していたのが、メールで済む様になった。
例えば中学生のとき行った函館・十和田・弘前への修学旅行写真や、「郷土史ふれない」に載っている「振内劇場」の部分をiPadで撮って、添付メールで送ってくれたのだ。送ってきた画像が少々見難くても補整は私のお手のもの。アルバムに貼ってあった小さな写真を、A4サイズ一杯に印刷しても、顔が分かる程度にできた。
だから、これを今度の同窓会に持って行こうと思う。だが、残念な事がひとつ。小学校の修学旅行写真が見つからないのだ。
こうして「振内劇場」の資料が揃ったので、即、作成に取りかかった。(2017/7/2)

振内劇場と振内市街

振内劇場の写真は2016年10月21日、二風谷の「沙流川歴史館」を訪れたとき、偶然、見つけた。この写真の下に「昭和24年1月」と書いてあったが、私が覚えているのも、こんな四角い形の劇場であった。
同じく、「沙流川歴史館」にあった「昭和47年の振内市街」だが、この頃も未だ賑わいを見せていたようだ。

郷土史ふれない

下記の文は「郷土史ふれない【振内劇場】」(p800~p803)からの引用だが、固有名詞で間違っている所は直した。

振内劇場
堂前吉之助さんは平取村長をしていた。二級村だったので、人事は道庁長官の辞令(官選という。)で新冠、荻伏などの村長も歴任した。 戦前の八田鉱山では、従業員の娯楽慰安のために八田会館を作った。当時の会館は畳敷きで座布団を敷いて観劇していた。

ところが、吉之助さんは戦時中、大政翼賛会の会長をしており、戦後はC級戦犯とされ、1945年(昭和20)の終りに村長を辞めることになる。 1946年(昭和21)から振内劇場を始めた。平取本町にある細川印刷所の留次郎さんと八田満次郎さん、八田忠虎さんと親しくしていたので、八田の会館を借りて、しばらくそのまま映画や芝居・浪曲や劇ものなどを興業していた。

映画は、平取本町の山本将男(やまもと まさお)さんが経営していたサン映画社からフィルムを持ってきて上映し、浪花節などは小樽の西浦さんという興業者を通じていた。山本さんは16ミリの映写機で上映を行っていた。当時は映画をやっても何をやっても流行った。 無声映画を1度だけ試してみた。『鞍馬天狗』を上映したが、まぁまぁだったので、それ一度きりだった。

嵐寛寿郎主演 鞍馬天狗「角兵衛獅子」

3年くらいして、八田さんからいつまでも借りるわけにはいかないので、八田会館を買いとった。富内線が開通したときに、会館を新築した。木の椅子にして、ボイラーがあった。暖房は1メートル四方くらいのコンクリートを打って炭を焚いていた。厚賀の劇場がボイラーを入れ替えると言うことで、古いボイラーを譲ってもらった。粉炭の少し大きい石炭ボイラーでお湯を沸かして循環させたものだった。

苫小牧から振内に来る人々に、王子の娯楽館にも負けないくらいのものだと言われた。35ミリの映写機に変え、サン映画社の若い人たちが来てやっていたが、堂前さん自身も映写技師として映写機の操作をした。当時映写機の光源はカーボンだった。機械は調整し乍ら使用するが、機械が壊れた時は、手で調整した。
フィルムの缶は1本の映画で7、8本ある。切り替わるときに、フィルムを1号機にかけてまわして、カーボンをつけておく。2台の映写機を交代で使い、1缶のフィルムが終わりそうになると、次のフィルムを別の映写機で用意しておく。フィルムとフィルムの継ぎ目がわからないようにつなげるのが、映写技師の腕の見せどころだった。

テレビが普及し始めると、映画ではお客が入らなくなったが、浪曲とか演芸が来るとよく入った。そのような芸人たちは劇場の楽屋で宿泊していた。
大相撲がきたこともあり、力士は各家に泊まった。力道山がまだ力士をしていた頃だったが、まもなくやめてしまい、振内に来ることはなかった。
また、村田英雄や北島三郎、五月みどり、双葉百合子、三橋美智也なども振内劇場に来た。大物は旭川の本間興業が回してくる。タレントは劇場では泊まらず、苫小牧などで泊まる。車で送り迎えなどして、観客はたくさん来たが、そういうことで儲けはあまりなかった。

そのほかにも、「小人プロレス」や選挙の立会い演説会なども劇場で行っていた。 振内農協の時代には、総会のあとで、映画を上映したりした。サン映画社の後は、静内の静宝館からフィルムを回してきた。新しいフィルムは高価でなかなか来ることはなかったが、三船敏郎の『椿三十郎』や『七人の侍』、小林旭、森繁久弥の社長シリーズ、寅さんシリーズなどは人気があった。

三船敏郎主演「椿三十郎」予告編

振内だけでなく、映写機などを橇やリヤカーに積んで持って行き、出張上映をした。日東鉱山や貫気別の旅館の馬小屋などが、映画上映場(仮の映画館)になった。そこまでリヤカーや橇で運ぶのは、堂前さんだったのである。 三角の屋根の部分には大きなスピーカーを取り付け、昼間からレコードをかけ、上映のお知らせをしていた。そのレコードは苫小牧で買ってきて、蓄音機でかけていた。

子どもの映画は昼に上映し、中学生向けの映画が入ってくると、小学校に交渉して映画鑑賞会なども行っていた。全校生徒400人余りが入るような大きな会館だった。 殻を飛ばす簑(み)があり、玄関の窓口の下においておき、簑にいっぱいになると箱に入れた。それぐらい当時は劇場に人が集まってきた。

堂前裕之さんが貫気別や本町に出張する際などは、定子さんはアスパラ工場に28年勤めていたが、帰ってきて映画館で映写の仕事をしていた。 富内線が開通する前は、道南バスに映画のフィルムを2~3個の包みにして、運んできた。劇場の人がバス停でフィルムが届くのを待っていたものである。 富内線が出来てからは鵡川からフィルムが振内駅まで届くようになり、格段に便利になったという。

岩知志ダムの建設の労働者たちも、映画館によく来た。 振内劇場と同じ時期から続いているのは、浦河の大黒座が唯一の劇場である。浦河では大黒座の後援会があり、若い人たちがフィルムを持ってきて上映するなどの活動を行っている。 1979年(昭和54)に振内劇場は営業を停止した。

懐かしのヒーロー主題歌シリーズ

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